前から不思議に思っていることがある。
なんでヘッドフォンはいつも
いつのまにか絡まってしまうんだろう。
バッグの中に入れたり、机の中に置いておいたりすると、
絶対と言っていいほど必ず、
ヘッドフォンに結び目がついている。
絡まらないように、
機体にぐるぐる巻きつけておいてもだめなのだ。
今日はとくにひどかった。
2,3ヶ所結び目がついていて
わけがわからないことになっている。
麻痺のせいで、
わたしの左手の親指と人差し指は
素直にいうことを聞かないので、
こうゆうときは本当に腹が立つ。
がんじがらめ、だ。
でも、いつのまにか理不尽に絡まったヘッドフォンも、
素直にいうことを聞かない左手の指も、
投げ出さずに
地道にゆっくりほどいていけば、
いつか元どおりになることを、
わたしは知っている。
そして、そうやってほどいたヘッドフォンで聞く音は
絡まったままで聞くヘッドフォンより、
いい音がする錯覚に陥ってしまうことさえある。
ヘッドフォンならまだいいけれど、
人は自分でも気づかないうちに、
(だから、それはときに理不尽と訳される)
ネガティブなことにがんじがらめになっていることがある。
それが、会社や学校での人間関係についてだったりするなら、
まだ抜け出す方法はおおいにあるように思う。
でも、それが生まれたときから背負っているもの
−例えば、肌の色や人種や、親の信条などを含む環境−
だったら、どうだろう。
生まれ持って背負っているその絡まりは、
きっと成長するにつれて
さらに深く絡まってゆく。
実話に基づく映画「
フリーダム・ライターズ」を見た。
舞台は1994年、ロス暴動直後のロサンゼルス郊外。
わたし達には想像もできないようなものに
がんじがらめにされている、ウィルソン公立高校の生徒たち。
低所得者の多いこの地域では貧困による憎悪と犯罪がうずまき、
生徒たちは人種ごとに対立し、いがみ合っている。
白人、黒人、ラティーノ、東洋人…。
抱えている問題が大きすぎて、
きっと彼らは、
自分が果たして何にがんじがらめになっているのかも
わかっていない。
だが、エリンという新米の女教師が
彼らに変化の糧を与えていく。
それは、自分を見つめなおす1冊の日記帳、
そして、教育。
彼らは彼女に出会えたことで、
自分のしがらみを少しずつほどいていく・・・。
この映画は、ひとりのすばらしい教師が
生徒たちを変えていく話だと捉われがちだが、
実際はそうではないのではないかと思う。
教師と生徒が“ともに変わっていく”話だと思う。
“変化”というものが人に訪れるとき、
そこにあるのは
「(誰かを)変えた」とか「(誰かに)変えられた」という概念とは
少しちがうように思う。
そこにあるのは「変わる」という自動態である。
受動態では決してない。
変化するとき、
人は必ず何かしらに
きっかけや影響を受けていると思う。
それは、ある事柄であったり、人であったりさまざまだ。
でも、そこには、
「変わる」自分が常にいる。
「変わりたい」「変わろう」という“意志”がある。
それがなければ、“変化”はありえないのだ。
だから、この映画で描かれている話がすごいのは、
困難な状況にある生徒たちが
「変わろう」という意志を持っていたことだと思う。
それを引き出したエレン先生も、
そんな彼らから何かを得て、変化していると思う。
変化の相互作用は涙がでる。
一歩踏み出すことが、
ときにものすごく困難なことがある。
とくに、絡まりに絡まったしがらみなら
なおさらだ。
でも、「変わろう」という意志を
持ち続けられる自分でいたい。
そう思った。
『シーソーは、下におちる瞬間より
上にあがる瞬間の方がおもしろい、とあたしは思う。
上にあがるときは
自分で地面を蹴るけれど、
下におちるときは
なんにもしないでおちちゃうから。』
江國香織 「神様のボート」より。