わたしは根無し草みたいなものだとずっと思ってきた。
生まれは鹿児島。東京、仙台、埼玉と転々として、今は久喜というところに一時的に落ち着いている。中3から住むこの町には、全然思い入れがない。駅と家までの道を一本外れてしまうと、方向感覚が全然わからない。来年からは、東京のどこかでひとり暮らしをするつもりだ。
“根無し草”。
最近読んだ、宮部みゆきの「火車」にこんなくだりがあった。
『買い替えのきくものに、人は根をおろさない。
買い替えのきくものを、故郷とは呼ばない。
だから、今の東京にいる人間はみな一様に根無し草で、
大部分は、親や、そのまた親が持っていた
根っこの記憶をたよりにいきているのである。
だが、その根の多くはとっくに弱り果て、
その呼ぶ声は、とうの昔にしゃがれてしまった。
だから、根無し草の人間が増える。
(途中略)
仕事でこの大都会を歩き回り、大勢の人間に話を聞いているとき、
相手の話のなかに、語尾に、イントネーションに、
言葉の選び方のなかに、
明らかにその人物の「故郷」を思わせるものを感じ取ったとき、
ちょっと淋しいような気になる。
群れて遊んでいるうちに夕暮になり、
友達は一人、また一人と
母親の呼ぶ声に惹かれて家に帰ってゆくのに、
誰も自分を呼んではくれず、
気がついたらとり残されていた
――そんな子供のような気分になる。』
うんうん、よくわかる。やっぱりわたしは根無し草だ。そして、わたしもいつもどこかで少しさみしい。帰る場所はどこだろう。どこかにそんな場所があるだろうか。
でも、こないだ気がついた。沖縄に行ってからだ。
就活を通じて仲良くなった仲間9人との3泊4日。出身も、大学も、そして就職先もばらばら。つまり来年からは散り散りになる。
沖縄2日目の夕方、丘の上からきれいなサンセットを見ながら思った。
さみしいな。こんなに楽しいのに。
でも、同時に思った。わたしの根は、土地じゃなく、「人」なのだと。落ち着く土地がなくても、落ち着く人たちがいるってこと。宮部みゆきの言葉を借りると、人は絶対に“買い替え”できない。それって、すごく大切だ。その貴重さは計り知れない。そして、わたしは幸せだ。心底、幸せだって思った。
きっと、卒業までいっぱい楽しいことがあって、その度に同じくらい寂しくなって、でも思うんだろう。わたし、根無し草じゃない。こんなに大切な人がいる。
沖縄で出会った人たちは、みんなあったたかった。居酒屋のおもろいおっちゃんも、駐車場のおっちゃんも、お土産やのおばちゃんも、居酒屋のかわいいお姉さんも、ガラス職人のおにいさんも、インストラクターのお兄さんもお姉さんも。
そして、明るかった。沖縄のまぶしい太陽みたいにきらきらしてた。てっきり沖縄の人かと思ったのに、関東出身の人もいっぱいいた。でも、みんな沖縄を愛してた。それは、きっと、沖縄の人があったかくて、そして、大切だからだろう。
根っこは人なんだ。何度もそう思った。なんだか、すごく幸せだった。
ギャルのイメージしかなかったハイビスカスが、ほんと自然にあちこちに咲いてた。きれいだったな。
また、根無し草だと思ってさみしくなったら、来年みんながあちこちに飛んでさみしくなったら、お腹抱えて笑いまくった今回の旅行と、ハイビスカスを思い出そう。そしたら、きっと頑張れる。
みっきー、べっきー、たきお、ペレ、ムック、のりさん、さよちん、きっぺいちゃん、はま、ありがとう。
卒業まで、あと2回は旅行しよう。そして飲んだくれよう。
定年したら、ゲートボール旅行でもしよう。笑。
『薬を10錠飲むよりも、心から笑った方がずっと効果があるはず。』
アンネ・フランクの言葉でこんなすてきな言葉があった。それを実感した、4日間でした。