no rain, no rainbow
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平和な都市。
 まず武器や争った形跡がない。発掘されたガイコツを調べると、重労働を強いられた形跡もまったくない。人々が穏やかに平和に暮らした空中の都市。

 マチュピチュの話だ。



 こないだ高校の友だちと飲んだ時に「おまえ今度はどこ行くの?」って聞かれて「ペルーかインドに行きたいんだよね〜」って言ったのを覚えてくれていたらしく、友だちから「今夜のNHK20:00〜マチュピチュだぞ」ってメールが届いた。教育実習中で忙しいっていうのに、あいかわらず気が利くなぁ。ありがとう。その時間は家にいなかったから、お母さんに頼んで録画しといてもらって、さっき見た。「探検ロマン世界遺産」。この番組は、前は去年の春に行ったなつかしのメキシコのテオティワカンの特集をやってたりして、なかなか好きな番組。

 テレビにくぎづけになってしまった。

 まず、マチュピチュはなぜあんなに高い山の頂上にあるのか?(だって、すぐ隣の山には雲が巻いてる。どれだけ高いの!)誰がたてたのか?どうやって建てたのか?

 一番惹かれたのは、「なぜ?」の部分。マチュピチュはインカ帝国の都市だ。インカとは“太陽の子”という意味。そして、インカの人々は自然を神と考えてた。だから、太陽がすっごく大切な神だった。マチュピチュは南米アンデスの山中にあって、そして太陽にとても近いところにある。つまり、広大なインカ帝国の中でまさに選ばれた土地なのだ。自然崇拝の起点の場所。彼ら々が祈りを捧げる場所、彼らの理想の場所がまさにマチュピチュ。

 マチュピチュに続く山の斜面は階段のようになっている。それは、段々畑だったそうだ。隣のワイナピチュという山の斜面にもそれがある。そこでは、とうもろこしを作って、チチャというお酒を作っていた。今でも、その習慣は周囲の村に残ってる。そして、もうひとつインカの時代から続いてる習慣。それは、チチャを飲むときに必ずすることだ。
“チチャを数滴大地にたらす”
 豊かな実りを与えてくれた大地の神に感謝をするのだ。

 なんだか心が洗われる思いがする。そして、マチュピチュに続く段々畑で、穏やかな顔をしたインカの人たちが、チチャを大地にたらしながらとうもろこしを育ててる何百年も前の姿を想像する。あー、いいなぁ。なんだか、本当にうらやましくなってきた。

 もうひとつ、マチュピチュに惹かれたところ。それは、どうやってあんな高い山の上にあんな建造物を建てたのか?というところに繋がってる。びっくりしたことに、あの都市を築いてる石はどこかから運んできたのではなく、もともと岩山だったところを地道に削ったり、整えて動かしたりしながら築き上げたそうだ!そして、それはインカの人々が描いたひとつの理想と繋がってる。建造物と周囲の自然がみごとに溶け合い調和したデザイン。自然と人間が一体化することを願ってできた都市だったのだ。そして、それをみごとに実現した都市がマチュピチュだった。

 のちに、スペインの征服によって滅びたインカ帝国。でも、このマチュピチュはついにスペイン軍にも見つけられなかった。まさかこんな山の上に、都市があったなんて思いもよらなかったんだろう。マチュピチュが残っていてくれて本当によかった。

 今、マチュピチュは世界でもめずらしい複合遺産として登録されている。自然と文化が共存した世界遺産。インカの人たちの祈りがこの地には受け継がれているのかもしれない。

 そして、最後にすてきだったこと。それは、地元ペルーの人々が発掘調査に関わっていること。ひとりのペルー人が言った。
 『マチュピチュの遺跡で働けることは、私たちペルー人にとって誇りです。』
 
 自分たちで自分たちの文化を守るということ。それは、当たり前のようだけど、本当に大切な気がする。アンコールワットでも、メキシコのピラミッドでも…色んなところでそれを感じた。

 今年の秋の旅は、ペルーに行きたいなぁと気持ちが傾きつつある。同じく行きたいインドと悩んでるけど。早速、図書館でペルーとインドの地球の歩き方を借りてきた。とりあえず来週には就活が終わりそうなので、そしたら読みふけよう。


 この世界には、わたしをどきどきさせてくれるものがまだまだ沢山あるんだって思ったら、命が全然足りない気がしてきた!笑。
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天から授かった職。
 「ひとりひとりが天職を全うしたから。」NHK連続テレビ小説「天花」で、仙台のじいちゃんが孫の天花に言った言葉だ。仙台で田植えをするじいちゃんは言う。「戦後の日本がここまで発展したのは、ひとりひとりが天職を探し、それを全うするために必死に生き、死んだから。」

 なんだか、胸に染みた言葉だった。ひとりひとりには天職がある。

 天職=天から授かった職。自分の生まれつきの性質に合っている職業。

 今、大学3年生になって、毎日就職のことについて考えているわたしは、自分はどんな性格なのか?どんな可能性があるのか?そして、その可能性をどんな風に仕事に生かしていくことができるか?自分は何がしたいのか?そんなことが、頭の中をぐるぐるしている。

 そんなわたしの頭の中に「天職」って言葉がすごく響いてきて、なんだか、自分も天職を見つけて、それを全うできればいいなぁと思った。今、わたしが将来なりたいなぁと思っている職業は、まだ現実味を帯びて実感できないけど、わたしには大きい夢があって、それを実現するためには、やはりこの職業に就きたいという思いがある。それを実現することがわたしの天職だと信じて、悩みながらも頑張っていきたいなぁと改めて思った。

 じいちゃん、ありがとう。
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神が逆さに植えた木。
 ほんとにふしぎな木だ。地から突然生えたような幹が空に向かってまっすぐに伸びる。そして、一番空に近い部分にわずかだけある枝と葉。「神が逆さに植えた木」。その呼び名がとてもしっくりくる。そんな神秘的な木に目をうばわれた。

 今日、NHKの「地球だい好き 環境新時代」という11時から30分だけやっている番組で、このすてきな木とであった。わたしの家は、とにかくテレビをつけたらNHKという家庭なので、今日もわたしがマスコミ塾に行くために、シャワーを浴びて化粧をしていたら、たまたまこの番組が流れていた。

 このわたしの心をひきつけた「神が逆さに植えた木」の名はバオバブ。そういえば、ずっと前に読んだ「星の王子さま」にも出てきた気がする。そう思って本を探してみると、やっぱりバオバブの名があった。王子さまの小さな星をバオバブが破壊しないかと、王子さまがとても心配するというエピソードだ。それは、バオバブがすさまじい生命力を持っていて、早く追いはらわないと、星いちめんにはこびって星が破裂してしまうから。それで、王子さまはバオバブの芽を抜き取って、「きちょうめんにやればいいこと」と言う。

 たしかに王子さまが心配してしまうのもうなずけるほど、バオバブの生命力はすごいそうだ。番組によると、アフリカ大陸の南東に浮かぶマダガスカル島には、樹齢600年から800年にもなるバオバブが集まる「バオバブ・アベニュー」と呼ばれる場所がある。600年から800年と言われてもぴんと来ないのに、なんと、この不思議なバオバブが地球上に現れたのは、1億年も前のことだそうだ。マダガスカルの人たちがこの木を神が宿る聖なる木として崇めるのも、それを聞くとよくわかる。しかし、樹齢を聞かなくても、この木には本当に神が宿っているのではないかと思ってしまう凛とした神秘さがあるのだ。

 なんとこの木は、葉だけではなく幹でも光合成をするのだそうだ。からだ全体を使って光合成している。命の大きさというか、偉大さを感じてしまう。そして、この幹のまっすぐさ。広大なアフリカの大地と空にとても映える。幻想的な気持ちになる。

 しかし、この木が最近、相次いで倒れているという。人口が増えたために、水田開発が進み、灌漑によって土が湿潤になったことが、バオバブの根を腐らしてしまう原因になっているのだ。「聖なるバオバブ」の中でも、とくに大きな一本が倒れた絵はわたしにとっても大きなショックだった。人間の営みが、自然を破壊していくさまを目の当たりにした。しかも、ひとが、神が宿る木を、自らの手で失ってしまっているのだ。そして、新しい若木は育っていない。ひとの限界というか、矛盾というか、そんなものを感じて心が痛くなった。

 しかし、「バオバブ・アベニュー」から遠く離れた地に、この規模を上回る、新しいバオバブの群落ができている。ここのバオバブは、背が低く太っている。でも、木全体で呼吸をして、そしてこれからまた長い間生きていくことは間違いないだろう。そのまだ若い命のバオバブを見ると安心した。自然の力強さ。そんなものを感じることができた。

 しかも、そのバオバブを見て、楳図かずおさんが言った言葉がとても印象的だった。「ここのバオバブはきっと、どこか別の場所で倒れた魂が飛んで来て根付いたものでしょう。彼らは何度でも生まれ変わり、どこででも生きていく。」

 この神秘的なバオバブが、このアフリカの大地を飛んでいる姿を想像したら、なんだかおかしくなってしまった。でもなんだかこの木ならほんとに空を飛んでしまいそうで、この木を見るために、マダガスカルに行きたいなぁと思った。そして、もっと地球のいのちの神秘さを感じて、そして、もっと人と地球のいのちの関わり方について、実感を持って、考えられればいいなぁと。いくら、バオバブが神が宿る木であっても、ひとの営みが確実に自然のいのちを傷つけているのは認めなくてはいけないところだと思うから。

 環境破壊という問題を、今日本のコンクリートだらけの場所に生きるわたし達には実感を持ってとらえられないけど、このバオバブがわたしにそれを教えてくれた。その意味でも、「神が逆さに植えた木」は、何か大いなるものがその存在を通してわたし達に伝えてきているのではないかと思ってしまった。わたしは、このバオバブの存在を忘れないでいたい。
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下から見るか、横から見るか?
 岩井俊二の結構前の作品に「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」というのがある。花火も、下から見るのと横から見るのでは、全くかたちが異なって見えるのだ。これは当たり前のことのようだが、自分が見えているように、周りも見えているのだと錯覚してしまうことは意外と多い。

 同じように、ひとつのものごとを見ても、人によって見え方・感じ方・考え方は全然違う。頭ではわかっているはずなのだが、自分とは異なる他人の考えに触れてハッとすることがよくある。

 今日はマスコミ塾の日だった。マスコミ塾では、志望ごとに少人数のゼミを作って、勉強会を開いたりする。わたしのゼミは面白い人ややる気がある人が多くて、掲示板を作って、気になったCMやTVやニュースについて書き込んだりしているのだが、その掲示板上で何度も話題に上がって議論になったのが、「オレンジデイズ」論だ。好きな人と嫌いな人が分かれて、それぞれ主張したりしていたのだが、ネット上で議論しても…ということで、今日授業の後に直接話すことになった。

 「障害者の価値観を一般化して押し付けているのがいやだ(例えば、障害者は自分の価値観をネガティブに捕らえているという前提)。」
 「このドラマをみて、障害者の人がこんなときに困ったり悲しかったりするのだというのが、リアルに伝わってきて理解が深まったからよい。」
 など、色々な意見が出たのだが、どちらが正しいというわけではなく、どちらの意見も確かに当てはまることがある。本当に人によって感じ方が違うのを改めて実感した。

 わたしはというと、うーん、双方の言い分ともわかるなぁという曖昧な意見だったのだが、友だちが言った一言にとてもハッとした。
 「オレンジデイズって脚本北川悦吏子なんだよね。」
 北川悦吏子といってすぐ連想できるだろうか。そう、この脚本家は障害者をテーマにした作品が多いのだ。「愛していると言ってくれ」では、豊川悦司が聴覚障害者役を演じていた。「ビューティフルライフ」では、常盤貴子が車椅子の障害者役。そして、今回の「オレンジデイズ」では柴咲コウが聴覚障害者の役だ。これに気づいてとても違和感を感じた。

 恋愛のドラマというのは、何かふたりの間に問題があってそれを乗り越える過程で感動させるというひとつのパターンがある。こう見ると、北川悦吏子は、この恋の障壁を恋するふたりのどちらかに障害を与えることによって、感動を与えていることになる。しかも、そのような作品を何本も作っていることが引っかかった。

 この人は、何か障害者にとても思い入れがあって、それを伝えようとしているのか、それとも、やはり障害を主人公に課すことによって話をより盛り上げよう、感動させようという意図なのだろうか、それをわからないと何とも言えない。そう思って、「北川悦吏子」と「障害」というキーワードでYAHOO!で検索してみたが、あいにくわたしには、北川悦吏子がそれについて語った言葉は見つけられなかった。

 でも、その代わりに、多くの人のこのドラマについた意見は見ることができた。
 
 ・「オレンジデイズ」は手話を使った場面が多くあり、柴咲コウ演じるヒロインの台詞が字幕で書かれているので、ドラマの中で手話による会話が始まると、画面から目を離せなくなる。なので、手話ドラマの場合、通常のドラマよりも自然と画面への注目率が高まる。その結果、タイミングよくCMが挿入されると思わず、そのまま見てしまうことになる。手話ドラマは、広告主にとっては、おいしい番組であるのは間違いない。
 ・バリアフリーという言葉は「ビューティフルライフ」でのキムタクの「俺がお前のビューティフルになってやる」という台詞で一般化された。
 ・障害を持った役者が障害者役を演じればもっと「障害者もの」はおもしろくなるんじゃないか
 ・障害者ドラマは感動しやすいが、その感動が健常者である自分らの、無意識的な優越性からくる同情と寛容と優しさによるものではないかと感じるときもある
 ・「ビューティフルライフ」で常盤貴子が「車を運転しているときだけ、私は普通になれる」という台詞があるが、「障害」を取り巻く環境で、「普通」という言葉がどれだけ忌避されているか、わかってほしかった。
 ・ドラマを見て、障害者との恋愛ってあこがれる人がいるかもしれないけど、正直、それだけはやめて欲しい。興味本位っていう気がする。(障害を持っている人の意見)

 何個か意見を挙げてみたが、やはり、人それぞれ本当に感じ方はさまざま。これを見て思ったのだが、情報を鵜呑みにしてしまうことや、自分の考えが一般論だと思ってしまうことは本当に危険だなぁということ。こんなにたくさんの情報があふれている世界で、情報を与えられて、「はい、そうですか」とすぐ自分の中にインプットしてしまうのではなく、「これは本当にそうだろうか?」「他にこんな考え方はできないだろうか?」自分の中でもう一度反芻して、考えて、そして他人の意見も聞いてみる。そして、自分なりに消化すること。それが求められている時代なんじゃないかなぁと思った。マスコミを目指す上でもそれは常に意識しなければいけないんじゃないかなぁと。

 下から見たり、横から見たり、たくさんの視点から多角的にものごとを考えられるような人でありたい。
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生きる。
 「私の人生は楽しかった。」
 イラク日本人襲撃事件で亡くなった橋田さんの遺書に書かれていた言葉だ。
 
 日テレで0:25から放映されていた「ドキュメント'04 戦場特派員の妻」を見た。涙が出た。ニュースで橋田さんたちの事件が取り上げられる度、妻の幸子さんは気丈に振舞っていて強い人だなと思っていた。また、3邦人人質事件があったときに、報道ステーションに出演していた橋田さんが「私がもし同じような状況になっても、妻には覚悟するように言ってあるし、それはお互い覚悟して仕事している」というようなことを言っていて、すごい人だなぁ、本当に理解しあっていて、強い絆で結ばれているんだなぁと思ったのを鮮明に覚えていたので、改めてその強い絆を実感させられた。

 この番組で、特に強く心を打たれた言葉は、幸子さんの「人生ってもっと真剣で、楽しくなくっちゃいけない。橋田は、自分の人生を生きた。今回の事件で今の若い人たちに『生きる』ってことをもっと考えてもらえたらうれしい」という言葉だ。わたしも含めて、日本人のわたしたちは、生きるってことに敏感じゃない。それは、生命の危険を脅かされるような状況にない日本の安全を物語っていて、ある意味とても幸せなことであると思う。でも、どこの世界も日本と同じような状況じゃない。それに気づくことは、そしてちゃんとその現実を自分の中で受け止めることは、とても難しく、とても痛い作業だと思う。わたしはそれに初めて気づいたとき本当にショックだったし、すごく痛かった。そして、それをすぐ忘れそうになってしまう。でも、幸子さんの言葉を聞いて改めてはっきり思い出したのだ。『生きる』。自分の人生をどう生きるかは、人によってそれぞれだろう。別にみんなが戦場に行って、生を考えろという意味じゃない。だけど、自分が今生きていることを実感できるような、そして、「私の人生は楽しかった」と最後に言えるような人生を送りたい。自分なりの人生を見つけたい。わたしは、「日本の若い人たちに、新しい、若者に伝わりやすい形で、世界(日本も含めて)のあまり知られていない、でも知らなければいけないと思われる多くのことに目を向けて、視野を広げるきっかけ作りをしたい。」という将来の大きなビジョンみたいなものを持って、今就活に向けて頑張ろうと思っているところだが、その目標に対する思いがさらに強まった。わたしはその夢を目指して、それを実現することによって『生きる』という実感を感じられたらいいな。

 ベランダでたばこを吸っていたら、星が見えていて、「わたしは今生きているんだな」と思った。うれしかった。
 
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